1988年 9月頃 |
家庭内暴力で両親が立ち入れない聖域となった伸治の部屋は、9月頃から、中学時代の先輩や後輩が集まる格好のたまり場となった。 |
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1988年 10月中旬 |
裕史が運転する車に譲と伸治、それに伸治の中学時代の同級生の4人が乗り、自転車に乗った制服姿の女子高校生に対して「道を教えて」と声をかけた後、ナイフで脅し、ホテルで輪姦。 |
1988年 10月20日頃 |
裕史が運転する車に譲と伸治が乗り、裕史の顔見知りの女子高生をホテルに連れ込んで、強姦。 |
1988年 10月25日 |
裕史と譲でひったくりで12万円を稼ぐ。 |
1988年 11月8日 |
裕史が運転する車に譲と伸治が乗り、足立区内で自転車で帰宅中の19才の女子会社員を車に連れ込み、ホテルで輪姦。 |
1988年 11月25日 |
裕史が「ひったくりに行くぞ」と伸治を誘い、バイクで出発。午後8時すぎ、自転車に乗っている被害者を見ると、裕史は、伸治に「あの女、蹴れ。あとはうまくやるから」と命令した。伸治は、バイクで女子高生に近づき、左足で女子高生の右腰を思いっきり蹴って、角を曲がり様子を見ていた。バランスを失った女子高生は自転車に乗ったまま転倒。溝に落ちた。そこへ裕史が近づき「大丈夫ですか」と声をかけ、助け起こすと「あいつは気違いだ。おれも脅された。危ないから送っていってやる」と声をかけた。裕史は、女子高生を近くにある倉庫の暗がりで「おれはヤクザの幹部だ。おまえはヤクザから狙われている。セックスさせれば許してやる」と脅しホテルに連れて行って強姦。 |
1988年 11月26日 |
午前1時過ぎ。「ヤクザが来るぞ」と被害者を騙しながら伸治の部屋に連れ込む。 |
1988年 11月28日 |
伸治の部屋で泰史、伸治の中学時代の友達2人(高次か?)が、被害者を輪姦。伸治は緊張してできなかった。 |
1988年 11月30日 |
裕史は、被害者の家から捜索願いがだされないように、被害者を連れ出すと、近くの公衆電話から、母親と親友に電話をさせている。この時、被害者は「友達の家にいるから、捜索願いはださないで」と、裕史に言わされている。 |
1988年 11月末某日 |
午後9時頃。伸治の母親ます子が被害者と自宅で会う。ます子が被害者に「遅いから帰りなさい」と言ったが、そのまま2階にあがる。 |
1988年 12月初旬 |
伸治の母親ます子が2階にあがり、泰史と一緒にいた被害者に対して「どうしてここにいるか」を尋ねるが、被害者は答えず。翌日午後7時過ぎ。ます子が伸治の部屋を覗くと被害者と譲がいたので、もう一度、「すぐ帰りなさい。お父さん、お母さんが心配しているから」と言ったのだが、被害者は動かなかった。(脅されていて動けなかった)某日午後4時頃。少年達が夜遊びに疲れて、伸治の家で昼寝をしていたすきに、被害者は、2階から1階の居間に降りて110番したが、そのことを裕史に発見され、暴行を受ける。警察からの逆探知は、裕史が出て「何でもない。間違いです」と返事をした。被害者の行為を裏切られたと感じた少年達は、以後、被害者に対して顔面を殴ったり、足首にライターのオイルをかけて燃やすというリンチを繰り返し行うようになった。これらによってできた怪我などにより、少年達はますます、被害者を解放できなくなるとともに、火傷が化膿して放つ異臭により、被害者を疎んじるようになり、その処分に困るようになった。某日。裕史が譲、伸治、泰史を連れて、裕史の所属する暴力団の上部団体の忘年会に出席。裕史は組員達に「会長が自分で、譲が組織本部長。伸治は事務局長」と紹介。この頃からシンナーを売りだす。 |
1988年 12月中旬 |
被害者を輪姦した伸治の中学時代の友人(高次か?)に対して、些細なことから裕史、譲、伸治でリンチを加え、3週間以上入院する大怪我をさせた。 |
1988年 1月4日 |
午前6時30分。裕史、譲、伸治、泰史で被害者に対してリンチを始めた。顔面にろうそくをたらしたり、次々と顔面を殴り、被害者は血だらけの状態となった。更に1.7キロもある鉄製のアレイを裕史が持ち出し、泰史が被害者の腹に落とした。リンチが終わったのが午前10時頃で、その後、被害者が逃げないように足をガムテープでぐるぐる巻きにすると、4人でサウナに行った。裕史は後に「ひょっとしたら危ないんじゃないか、死んでしまうんじゃないかという気持ちが出てきたと思うんですが、鉄の棒で殴っても動かないんで」と述べている。 |
1989年 1月5日 |
昼過ぎ。伸治の兄から譲に「被害者の様子がおかしい」と電話がかかり、裕史、譲、伸治で駆けつけてみると、被害者は敷きっぱなしの布団で冷たくなっていた。裕史は後に「”じゃあ、どうする”、”捨てよう”ということになって、自分が劇画を読んでいて、ドラム缶の中にコンクリートを流し込んで、海に捨ちゃうという場面を思い出して、そのことがとっさに浮かんで、自分、前にセメントとか、そういう会社に勤めていたんで、作り方もわかるので、ドラム缶の中に捨てようということになりました」と述べている。バックに詰め込んだ遺体は、裕史の家の前で、3人でドラム缶に入れ、コンクリートを流し込んだ。近くの川に捨てようとしたが、譲が「家が近いので怖い。化けてでるかもしれない」と反対して、東京湾に捨てることにした。裕史が借りてきたワゴン車を運転して、東京湾の埋め立て地まで行ったが、適当な場所がなく、道路脇の草むらに捨てた。 |
1989年 1月23日 |
1988年11月8日に犯した強姦により、裕史らが逮捕される。逮捕後の捕り調べでコンクリート殺人を自供。 |
現在 | 主犯の裕史は、懲役20年の刑で服役中。副犯の譲は、既に刑務所から出所。犯行現場の提供者の伸治は、出所したかどうかは不明。泰史は、少年院でいじめにあい、引きこもり中。裕史、譲、伸治からささいなことでリンチにあった高次は、地元スナックでこの事件のことを、おもしろおかしく語っている。 |
「英雄」 宅間守の遺言 |
「わしが殺したガキどもは、わしの自殺の為の踏み台の為に生きていたんやな!ほんま、感謝しとる。 あのガキが8人死んでくれたから、俺が死ねるんやから 感謝せなあかん!死んでくれてありがとう!! でも、死刑になるだけやったら3人で十分やったな。残りの5人はおまけで感謝しといたる!」 ・・・どよめく室内。裁判長が退廷を命じる・・・ 宅間(引きずられなから) 「おい、くそガキの親!おまえらのガキの8人分の命はワシ一人を殺して終わりの程度の 価値やったんやぞ!エエ学校に行かせて偉そうにしとったから死んだんや! ガキどもが死んだ原因は おまえらあるんや!せいぜい一生反省せいよ! あの世でもおまえらの子供しばき倒したるからな! あははははは!あははは!こらおもろい!」 ・・・どよめく室内。退廷・・・ 5分ほど後に、判決文が読まれた。 あんな酷い親父の息子が屈折するのはあたりまえだ。今頃、息子の獄中日記がいくらで売れるか考えてほくそえんでいるだろう。 テロ朝によると、宅間の獄中日記は放送できないほど過激らしい。ぜひ出版してくれ>ダメ親父 |
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訴訟ビジネス 成功例 「宅間守事件」 |
既に遺族には4億払われ更に1億。刑事判決もでないうちに、金目当てで無関係な国を民事訴追した遺族 金目当てでなければ受け取った賠償金は寄付するよね?無関係な国から4億せしめてなお、宅間へ罵詈雑言を 放つ遺族のほうがむしろヒール。そんな遺族に脅されて判決を早くしたり、和解に応じる国もだらしない。 最高裁まで争えよ。4億も国からゆすった守銭奴エリート遺族を罵る、英雄宅間の遺言が聞きたかった。 被害者が公立愚民の子供だったら、高額賠償を裁判所が認め国が和解に応じることもなかったし、 判決が異例の早さにもならなかった。「宮崎勤事件」の被害者の親は、国から賠償金などもらっていない。 そのうち遺族は、宅間の獄中日記の印税還元まで要求するだろう。公立愚民の子供が被害者だったら… |
守君と真季たん |
守君 「がおーっ」 真季たん「(尻を振って)犯るなら私にしなさい!」 守君 「先生。いいの?」 真季たん「困った子。早くしなさい」 守君 「先生。入れるよ?」 真季たん「他の子がみてるでしょ。恥ずかしいから、早くしなさい」 守君 「入ったよ。とっても気持ちいよぉ。先生」 真季たん「もっと奥まで突き上げて。あっあっ。そうよ。やればできるじゃない」 守君 「気持ちよすぎて、もぉイっちゃいそうだよぉ。先生」 真季たん「イク時は一緒よ。男の子でしょ。もう少し我慢しなさい」 守君 「もう我慢できないよぉ。先生」 真季たん「呆れた子。チャイムまで待てないの?しょうがないわね。早く逝きなさい」 振り向いた真季たんは、彫刻刃で守君の心臓をえぐった。 「なんだかスッキリしたよ。みんなを殺すのやめるよ。先生」 守君の断末魔は、真季たんへ届かなかった。 これ位の勇気が真季たんにあれば、こんなに非難されることもなかっただろう。 |